僕の少年時代

僕の最初の記憶は、結構辛いです。家の中のガラスがいつも割れ、床にガラスが散乱していた。

つまり、割れたガラスが、物心ついた頃の最初の記憶です。悲しすぎます。

父親はお酒を飲んでは毎晩暴れていまして。

こうして記事を書くのも、辛いことです。でも、似たような「ひとり親家庭」の境遇の子がいたら、少しでも励ますことが出来るかも、と思い、書いています。

結論から言うと、僕は、とても優しい人になれました。人の痛みがわかる人になれました。

割れたガラスですが、「型板ガラス」で、今、流行っているようです。昭和を懐かしく思うのか、それともカワイイと思うのか。

母は保育士をしていました。僕は毎朝、母に連れられ、母の職場である保育園へ通っていました。夜、父は母を殴り、そして朝になり、母は目の瞼が腫れていて、アオジになった状態で出勤するのですが、同僚から「どうしたの?」と心配されているのも何度か見た。子供の前で、こういう事をするのは、今なら完全に虐待です。

しかし、幸い、父は僕に暴力をふるう事はありませんでした。

母に連れられ、毎週日曜日には、教会学校へ。僕は、小さいなりに、救いを求めていたんだと思います。今思えば、キリスト教に出会えていた事も大きかった。讃美歌が洋楽っぽかったからです。その後に役立ちました。

そして、僕が小1だった時の秋、帰宅すると、父はある日突然、いなくなっていました。両親は離婚したんです。。。

その前には、家庭裁判所に僕も行き、「父か母か、どっちが良いか?」と聞かれる訳です。あれは辛かった。小学校一年生でしたから、普通、どっちも好きなので選べません。祖父に「お母さんがいいと言うように」と背中を押されました。祖父は僕を守りたかったんだと思います。

僕の机の上には置き手紙がありました。父からでした。

その後、学校から下校する時、父がこっそりと僕を見ているのに気づきました。走っていくと、父は慌てて走って逃げていきました。僕は「待って!」と追いかけても、父は一瞬で消えました。大人になり、結婚し、子供を持った今、父のことが理解出来ます。きっと可愛い息子である僕に会いたかったんだろう、と推測出来ます。あの時は、母にもその事を伝えることも出来ずですから、一人で泣きました。

ある日、こんな事もありました。友達より「お前は父親無しだ!」と怒鳴られました。大喧嘩になりました。

日曜日になると、近所の友達はお父さんと遊んでいますが、僕には一緒に遊んでくれる父もいませんでした。お父さんとキャッチボールをしている近所の友達が羨ましかった。仕方がないので、僕は、壁にボールを当てて、一人で遊んでいました

それを見た祖父がよく遊んでくれましたが、おじいちゃんはおじいちゃんでしかなく、父親がわりにはなりません。それでも祖父の優しさは伝わってきました。

少しずつ、大きくなるにつれ、僕は、母は僕がいなければ再婚出来るのでは、と気づいていました。その場合、僕は孤児院にでも入れられるのかも、と心配した事もありました。しかし、母は僕を見捨てる事もなく、真面目に仕事をしてくれました

トラウマなんて存在しないと言う人もいますが、完全にトラウマになっています。たまに思い出しては、メルトダウンして、涙が止まらなくなる事もあります。

僕が救われたのは、音楽であったり、絵を描く事であったり、また教会で祈ったりと、精神的に保つことが沢山あったのは良かったです。全て、一人で出来る事ばかり

親が小1で離婚し、小2の時には、描いた絵がアメリカに送られました。あの時、不幸なのも悪くないかも、と思ったものです。何故なら、好きな事に没頭出来たし、世間から認められたからです。

スイミングクラブで泳ぐことも、精神的に良かったです。水泳も基本、一人で出来ます

小5の時、FMラジオを聴いていると、洋楽に出会いました。スイミングクラブの先輩から洋楽を色々教えてもらいました。没頭していきました。

成績が良かったらので、母から天体望遠鏡を与えられた事もあった。月、土星、木星の観測をしてました。天体観測ノートを作り、先生に提出したら、褒められて、嬉しかったです。

そして、6年生の時にはギターと出会った事。それが大きかった。

中学に進学した後は、ロック系の音楽にのめりこんでいきました。かっこいい曲を見つけては、コピーしていました。14歳の時には、クラブに入り浸りでした。生でロックを体感していました。当時好きだったのは、Reactionというインディーズのメタルバンドでした。速くて激しい曲ばかりで、ライブに行き、のっていると、嫌な事を忘れることが出来ました。

中学時代には嫌な先生もいた。「片親の子供はロクな大人にならない」と授業で言い放った。酷い教師ですし、人として最低です。僕はグレていてもおかしくなかったと思っています。でもグレる事はありませんでした。音楽があって、良かった。

エレキギターとはいえ、楽器の習得をすることは、精神的な鍛錬にもなります。この点では、音楽もスポーツと同じようにメンタルを鍛えることになる、と僕は思っています。なので、部活の吹奏楽部やピアノの習い事は認めるけど、エレキギターやロックを否定するのは、僕はおかしいと思うし、偏見だと思います。まともにギター弾けるようになるには、それも人前で弾けるレベルになるには、ギターも同じように過酷な練習が必要だし、忍耐力も必要です。僕はスイミングクラブで選手コースまで行った人ですが、ギターの習得も同じように大変だと言い切ります。

また練習に没頭することで、自分が無になり、逃避にもなったかもしれません。一種の「悟りの世界」ですかね。また、音楽を通して、生涯の友を得ることも出来ました。音楽を通して、友達も作れます。スポーツと同様です。

アートにも救われました。普通、子供は展覧会に行っても、絵をじっくり見ることはないと思いますが、僕は違いました。好きな作家の展覧会に行くと、僕はずっと美術館にいました。作品の前に立っていると、作者がこの絵の前に何日も立っていたんろうと思い、そこから作家の情熱を感じたり、作品の隅々までじっくりと見て観察します。大人になった今でもそうです。

17歳の時、僕は留学生と共に、セックスピストルズのコピーバンドを結成しました。この留学生はドラマーでしたが、所謂イケメンでした。僕はギターで、彼に歌ってもらいました。ロックから僕は元気をもらっていたので、今度はみんなを元気にさせたい、と思いました。僕らは、かなりの人気バンドになりました。同級生が大勢ライブに来てくれましたし、他校の生徒達まで来てくれたました。皆から受け入れられ、本当に嬉しかった。その彼とは今でも友達で、昨年は彼のlockdown projectにも参加しました。

しかし、17歳は思春期です。父親に10年も会っていない事に気づき、悲しくなり、父を探し始めました。それを母に気づかれ、祖母にも気づかれました。家族は理解してくれました。

そして、ついに父に会えました。

10年ぶりに、父に会ってみると、素直に「お父さん」とは呼べず、他人行儀となりました。父は僕のことを息子だと認めてくれたのは嬉しかった。父は僕に殴られるのではないか、と思っていたそうです。僕には全くそんな気はありませんでした。ただただ自分の父に会いたかった。

しかし、父は、一旦お酒が入ると、やはり最悪でした。豹変しました。延々と嫌なことを言っていました。

あの姿にはガッカリでしたが、仕事(士業)は頑張っていたようで、顧客には何人か超有名人もいたりしまして、それを知り、僕は父に対して、誇りを持つことが出来るようになりました。誰でもそうですが、良いところもあれば、悪いところもあるものです。

また、父方の親族には超有名な女優さんがいたり、陶芸家がいたりしました。よく知らなかった父方の親戚の事も知る事が出来て、自信に繋がっていきました。

エレキギターなんか弾いていたり、絵を描いていたりすると、他人からは怠け者だと誤解されたり、それがなんの得になるんだ、そんな事やめてしまえ、など色々言われます。

しかし振り返ってみると、僕はアートと音楽に救われ、鍛えられたなと思います。少年時代の僕には、無くてはならないものでした。ロックな音楽には元気をもらい、アートを通して教養としての知識を得る事も出来ました。

子供の頃は、寂しい思いをしましたが、今でも音楽とアートに助けられ、こんなに優しい人間になれたのだから、良かったと思っています。

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